東京あいうえお

発達障害を持つ育てにくい子たちと できるだけ楽しく暮すには?を探す試行錯誤の日々

不登校と生きる、不安と生きる

長男が不登校を経て学校に行きだして10ヶ月が過ぎようとしている。
不登校の時、学校に相談に行き、校長と面談し、3年生になるタイミングで行けるように環境を整えた。
そして、同じ時期に不登校をしていた同じ年の友達ができて、長男はかなり救われたことだろうし、僕ら親も学校に行かせることに固執しなくていいかと思えるようになった。

 

3年生になり、担任が変わり、クラスメイトが変わり、学校に行くようになった。
ADHDとLDの特性がある長男にとって、学校とは楽しいことよりも辛いことの方が多い場所だろう。
最初の頃、授業中は机に伏して寝ているような状態か、学校にある限りなく漫画に近い本を読んでいたそうだ。

 

本当は能力があるから、やればできる。

 

息子を評するこの言葉は、褒め言葉と同時にやることを暗に要求してしまう呪いの言葉でもある。

不登校の時は、土日に運動場で遊ぶだけでもいい、保健室に来るだけでもいい、図書館に来るだけでもいいと言われる。
しかしいざ学校に行き出すと、授業を真面目に受けろ、宿題をしろ、友達と仲良く、とステップアップして普通の子と同じようなことを求められる。

 

その要求をこなしていくことで、いつの間にか息子は普通の子に成れるのだろうか。
いや、慣れるのだろうか。

 

10数年前、僕はたくさん仕事をしていた。週の半分は会社に泊まり、朝8時まで働きみんなと同じ11時にタイムカードを押した。
やるべきことがたくさんあって、やりたいこともたくさんあった。
忙しいのに更に忙しくなるような仕事を生み出していった。
そして、ある時に自分と同じようにできない部下を罵った。朝の4時に。

 

言うまでもなく、最悪の上司だろう。

 

昨年、電通で働き追い込まれて自殺した女の子のニュースがあった。

自殺するくらいなら逃げろ

この意見には100%同意する。1ミリも否定しない。
いざとなったら自分の命以上に大切なことはそんなにない。

 

だけど、だからと言って逃げることが推奨されるわけでもない。
乗り越えた先にある自信はまぎれもなく自分の人生を支えてくれるし、別の困難に立ち向かう勇気にもつながるだろう。

 

しかし、それは乗り越えた者だけが言える勝者の理屈でもある。

 

学校でいじめられ、学校に行かないという選択をする人もいるだろう。それはもしかしたら自殺を回避する唯一の選択だったかもしれない。
そして、どうせ学校をやめることになるなら一矢報いようといじめっ子を殴り倒し、それ以降いじめられなくなる場合もあるだろう。もしくは、更にいじめが酷くなる場合もあるだろう。

 

じゃあ、どうすればいいのか

 

その選択が正しかったどうかなんて、いつの時点で誰が判断するかによって全く変わることだ。

 

正解なんてあるわけない

 

僕の知り合いの写真家は、昔いじめられていたそうだが、今はとても素敵な人に囲まれ幸せそうに見える。僕から見ると、いじめられたことで蓄積されたマイナスのエネルギーをプラスに転換して今の成功があるのだろうと思う。しかしそれは僕の視点であって、本人からすると今も苦しんでいるかもしれない。

 

別の知り合いは、20代の頃に働きすぎて鬱になり実家に戻ってニートを10数年している。最初はみんな心配してたが、今は怠けている扱われている。

 

息子の話に戻そう。
幼稚園の入園式で、150人いた園児の中で走り回っていた2人のうちの一人がうちの子だ。
毎朝ぐずるので、徒歩4分ぐらいの場所にあった幼稚園に抱っこして行った。
そんな長男が、お遊戯会でみんなと並んで(ひと言であっても)セリフを言い、歌を歌っているのを見た時、本当に感動した。

 

息子なりに成長しているんだ、と。

 

例え主役じゃなくて、木Aの役だとしても、息子は頑張って自分の役割を果たしている。
それだけで十分じゃないか。
人と同じようにできることが少なくても、人より優れていなくても、あの時の感動を忘れてはいけないといつも思う。

 

普通に、真面目に生きて、むしろ人より優れている人たちですら、社会の中で苦しみ、時には逃げて、時には自ら命を絶つ世の中だ。

 

レールにちゃんと乗ってきたのに、レールは予告なくぷっつり途切れ、崖の下に落ちてしまう。

 

人に言われたことを真面目にしてきた人たちの仕事を、AIに奪われる世の中が来ることを大人たちは知っている。
それは息子の将来ではなく、自分たちの代に来る勢いだ。

 

何のために生きるのか。
何を目標に生きるのか。

 

本当に大切なことは、移り変わる人間社会の現時点でのルールを教えることではない。うまく生きることを求めることではない。
親が安心できる生き方をすることではない。

 

命を燃やし尽くす。

 

ただ、それだけ。
燃やし方は人それぞれでいい。

 

綺麗に生きる必要なんてない。
人は勝つ時もあれば負ける時もある。
自分の人生に評価を下す資格があるのは、死ぬ間際の自分でしかないと思う。
途中経過で社会的に成功しようが失敗しようが大したことじゃない。
肝心ことは、生き抜いて、自分の大切なことを見つけ、命を注ぐこと。

 

諦めたらそこで終わり。

 

大切なことを掴むために、しぶとく生きなければならない。
やばそうなら逃げる、休む、負けても次のチャンスを狙う、そしていつかまた挑戦する。いつまでたっても安心できない生き方になるかもしれない。

 

「ワクワク、ドキドキしたい」と使われるが、その言葉には未来への希望と不安、プラスマイナス両方の感情がある。
不安があっての達成感。
マイナスを乗り越えての充実感。
安心と不安を行ったり来たりするのが充実した人生なのではないかと思う。

 

そうして命をかけて燃やし尽くすことができたなら、勝っても負けても成功してもしなくてもいいじゃないか。

 

自分はそう生きたい。

 

息子にもそう生きて欲しい。

 

不登校になったら最初に読む本~親と先生と子どものための再出発へのヒント~