東京あいうえお

発達障害を持つ育てにくい子たちと できるだけ楽しく暮すには?を探す試行錯誤の日々

ネット時代の性教育

上の子が小学4年生になる。
まだまだと思っていたが、そろそろそういう好奇心が出てきてもおかしくない。
もしかしたら親の知らない所で既にあるかもしれない。

 

自分だって振り返ってみると、小学2~3年の頃におばあちゃんの家の2階にホコリまみれで積まれてあったエロ本を盗み見ていた。
エロ本と言っても、叔父が昔買って読んでいたんであろう「エロトピア」「平凡パンチ」などのエロ漫画誌だ。
今思うと大したことないけれど、当時は同じくらいの年の従妹たちとみんなで回し読みしていたものだ。

 

僕が高校生だった頃、10歳年が離れた弟(確か小学1~2年生の頃)は僕の部屋からエロ本(無修正)を盗み出した。
そしてなぜか、マンションの外にあった倉庫の前(!)に放置していたらしく、母親が回収したそうな。
と、自分の事だと懐かしいいい時代みたいな感じだけど、自分の息子のことだとそうはいかない。


もし、そういう性的な質問をされたら何と答えるのだろう。

 

「昔、お父さんは海でフナムシの交尾を見たことがあるんだよ。オスとメスはね・・・」

いや、そう例えるならオシベとメシベだろ。でも、花に例えられてもピンと来ない。

 

「お父さんとお母さんが愛し合った結果、コウノトリが・・・」

コウノトリをググったら絶滅危惧種特別天然記念物に指定されてるのを知りました。簡単に赤ちゃん運んでこれる状態じゃないという。。

 

「セックスってのがあんねん。愛ちゃうねん。気持ちええねん。そんでな、中出しっていうな・・・」

とりあえずストレートな内容を関西弁で包んでみるが逆効果ですね。

 

Yahoo!知恵袋で聞いてみ。」

これだな。うん、わからないことは知恵袋。

 

「パパ、グーグルで検索したらわかる?」

「うん、テキスト検索はいいけど、画像検索はするなよ。絶対するなよ。」

もうね、無理だと思う。
今の時代、隠すのは無理でしょ。

 

国語辞典で「セックス」を引いて興奮してた時代はとっくに終わったんだ。
もう、ちょっと間違っちゃうと黒人の無修正ポルノとかに辿り着いちゃうわけで、それならば日本のモザイク入りのやつの方がまだマシじゃないかとすら思えてしまう。
でも、SODのセックスのハードルが低い世界とか時間が止まったりする企画ものは、余計な混乱を生むのでやめておいた方がいい。


できれば避けて通りたい話題ではあるが、いつか向き合わないといけないのだろう。


親としては性に関心を示さない子供だと余計な心配しなくて済むんだろうけど、そんな人ってどうなの?というのが親としてじゃなく個人的な本音。
自分の周りで言えば、性的好奇心が強くてねじれてる人間の方が断然人間的に魅力的だ。
セックスに関心がなく、淡泊で正常位しかしない大人になんかなって欲しくない。
性は人間にとって生物的にも大切だし、人間性を形作る要素の重要な一つなんだから。


自分と相手の身体を大切にしよう。
自分と相手の気持ちを大切にしよう。


性教育で学ぶべきことはこれで十分じゃなかろうか。


隠されていて、閉ざされていて、手が届かない所に性はあって欲しいと思っている。
つかみたいけどつかめない存在であるから、想像力と好奇心が刺激されて発達していく。
だから、性を隠そうと思う。
アレントコントロールを駆使し、履歴をチェックし、リビングにPCを置き、できるだけ性の情報に到達するのを邪魔してやる。
そうすればするほど、子供たちの好奇心は刺激され、妄想が膨らみ、手が届いた時に感動して興奮して大切にするだろう。

 

大切なものを手に入れるのは簡単じゃないんだ。

 

ぼくどこからきたの?

ぼくどこからきたの?

 

 

不登校と生きる、不安と生きる

長男が不登校を経て学校に行きだして10ヶ月が過ぎようとしている。
不登校の時、学校に相談に行き、校長と面談し、3年生になるタイミングで行けるように環境を整えた。
そして、同じ時期に不登校をしていた同じ年の友達ができて、長男はかなり救われたことだろうし、僕ら親も学校に行かせることに固執しなくていいかと思えるようになった。

 

3年生になり、担任が変わり、クラスメイトが変わり、学校に行くようになった。
ADHDとLDの特性がある長男にとって、学校とは楽しいことよりも辛いことの方が多い場所だろう。
最初の頃、授業中は机に伏して寝ているような状態か、学校にある限りなく漫画に近い本を読んでいたそうだ。

 

本当は能力があるから、やればできる。

 

息子を評するこの言葉は、褒め言葉と同時にやることを暗に要求してしまう呪いの言葉でもある。

不登校の時は、土日に運動場で遊ぶだけでもいい、保健室に来るだけでもいい、図書館に来るだけでもいいと言われる。
しかしいざ学校に行き出すと、授業を真面目に受けろ、宿題をしろ、友達と仲良く、とステップアップして普通の子と同じようなことを求められる。

 

その要求をこなしていくことで、いつの間にか息子は普通の子に成れるのだろうか。
いや、慣れるのだろうか。

 

10数年前、僕はたくさん仕事をしていた。週の半分は会社に泊まり、朝8時まで働きみんなと同じ11時にタイムカードを押した。
やるべきことがたくさんあって、やりたいこともたくさんあった。
忙しいのに更に忙しくなるような仕事を生み出していった。
そして、ある時に自分と同じようにできない部下を罵った。朝の4時に。

 

言うまでもなく、最悪の上司だろう。

 

昨年、電通で働き追い込まれて自殺した女の子のニュースがあった。

自殺するくらいなら逃げろ

この意見には100%同意する。1ミリも否定しない。
いざとなったら自分の命以上に大切なことはそんなにない。

 

だけど、だからと言って逃げることが推奨されるわけでもない。
乗り越えた先にある自信はまぎれもなく自分の人生を支えてくれるし、別の困難に立ち向かう勇気にもつながるだろう。

 

しかし、それは乗り越えた者だけが言える勝者の理屈でもある。

 

学校でいじめられ、学校に行かないという選択をする人もいるだろう。それはもしかしたら自殺を回避する唯一の選択だったかもしれない。
そして、どうせ学校をやめることになるなら一矢報いようといじめっ子を殴り倒し、それ以降いじめられなくなる場合もあるだろう。もしくは、更にいじめが酷くなる場合もあるだろう。

 

じゃあ、どうすればいいのか

 

その選択が正しかったどうかなんて、いつの時点で誰が判断するかによって全く変わることだ。

 

正解なんてあるわけない

 

僕の知り合いの写真家は、昔いじめられていたそうだが、今はとても素敵な人に囲まれ幸せそうに見える。僕から見ると、いじめられたことで蓄積されたマイナスのエネルギーをプラスに転換して今の成功があるのだろうと思う。しかしそれは僕の視点であって、本人からすると今も苦しんでいるかもしれない。

 

別の知り合いは、20代の頃に働きすぎて鬱になり実家に戻ってニートを10数年している。最初はみんな心配してたが、今は怠けている扱われている。

 

息子の話に戻そう。
幼稚園の入園式で、150人いた園児の中で走り回っていた2人のうちの一人がうちの子だ。
毎朝ぐずるので、徒歩4分ぐらいの場所にあった幼稚園に抱っこして行った。
そんな長男が、お遊戯会でみんなと並んで(ひと言であっても)セリフを言い、歌を歌っているのを見た時、本当に感動した。

 

息子なりに成長しているんだ、と。

 

例え主役じゃなくて、木Aの役だとしても、息子は頑張って自分の役割を果たしている。
それだけで十分じゃないか。
人と同じようにできることが少なくても、人より優れていなくても、あの時の感動を忘れてはいけないといつも思う。

 

普通に、真面目に生きて、むしろ人より優れている人たちですら、社会の中で苦しみ、時には逃げて、時には自ら命を絶つ世の中だ。

 

レールにちゃんと乗ってきたのに、レールは予告なくぷっつり途切れ、崖の下に落ちてしまう。

 

人に言われたことを真面目にしてきた人たちの仕事を、AIに奪われる世の中が来ることを大人たちは知っている。
それは息子の将来ではなく、自分たちの代に来る勢いだ。

 

何のために生きるのか。
何を目標に生きるのか。

 

本当に大切なことは、移り変わる人間社会の現時点でのルールを教えることではない。うまく生きることを求めることではない。
親が安心できる生き方をすることではない。

 

命を燃やし尽くす。

 

ただ、それだけ。
燃やし方は人それぞれでいい。

 

綺麗に生きる必要なんてない。
人は勝つ時もあれば負ける時もある。
自分の人生に評価を下す資格があるのは、死ぬ間際の自分でしかないと思う。
途中経過で社会的に成功しようが失敗しようが大したことじゃない。
肝心ことは、生き抜いて、自分の大切なことを見つけ、命を注ぐこと。

 

諦めたらそこで終わり。

 

大切なことを掴むために、しぶとく生きなければならない。
やばそうなら逃げる、休む、負けても次のチャンスを狙う、そしていつかまた挑戦する。いつまでたっても安心できない生き方になるかもしれない。

 

「ワクワク、ドキドキしたい」と使われるが、その言葉には未来への希望と不安、プラスマイナス両方の感情がある。
不安があっての達成感。
マイナスを乗り越えての充実感。
安心と不安を行ったり来たりするのが充実した人生なのではないかと思う。

 

そうして命をかけて燃やし尽くすことができたなら、勝っても負けても成功してもしなくてもいいじゃないか。

 

自分はそう生きたい。

 

息子にもそう生きて欲しい。

 

不登校になったら最初に読む本~親と先生と子どものための再出発へのヒント~